ハイパーインフレの始まり方(1):賃金

 前回までの記事で、日本銀行にも政府にも、今はインフレを抑制する方法がないことを説明しました。

 つまり、今は物価がまったく上昇しないから落ち着いているけれども、ひとたび日本でもインフレが始まってしまうと、それを抑えることができずに、ハイパーインフレに陥ってしまう可能性が高いということです。

 多くの人は「インフレ自体を日本は何十年も経験していないから、心配する必要がない」と考えているかもしれません。これからいくつかの記事で、日本でもインフレは発生しうること、そしてその火種はどのようなものかを説明したいと思います。

賃金は物価に大きな影響がある

 まず、日本は今後労働力がますます不足しますから、賃金が上昇することが予想されます。賃金が上昇すれば、働いている人の使えるお金の量が増えますから、モノやサービスの需要が増加してインフレになりやすくなります。

 需要が増えるだけでなく、以下の記事のように、人件費が上昇することによるインフレ要因もあります:

CPI(消費者物価指数)はモノの価格よりもサービスの価格に強く影響されます。実際、CPIコアの構成を見ると、サービスが3/4のウェイトを占めています。サービス価格は賃金コストに影響されやすいため、雇用の動向が重要になります。

知るほどなるほどマーケット – 三井住友信託銀行 瀬良礼子

 しかし、現在の日本で賃金が上昇するなどということが本当にありえるのでしょうか? 最近の日本人の給料はどんどん下がっているはずで、これから賃金の上昇でインフレになると言われても、にわかには信じられないというのが多くの人の正直な感想ではないでしょうか。

 まず、現状として、需給に敏感なアルバイトやパートの平均時給は驚くほど上昇しています。以下の図に示すとおり、コンビニ店員の平均時給も清掃員アルバイトの平均時給も2014年前後から急激に上昇しています。

(出典)リクルート ジョブズリサーチセンター公開のデータより筆者作成
(出典)リクルート ジョブズリサーチセンター公開のデータより筆者作成

平均の手取り給与が上がらない三つの理由

 以上のようにアルバイトやパートの時給は上昇しているにもかかわらず、日本人の平均的な手取り給与がそれほど上昇していないのには三つほど大きな理由がありそうです。

 ひとつ目は、給料の高い正規社員が増えていないことです。下記のグラフから分かるとおり、日本では新たに生み出される雇用の多くがパート・アルバイト・契約社員などの「非正規雇用」とよばれるものであり、正規雇用の割合は一貫して減少しています。

非正規雇用の割合推移
(出典)HRデータ解説 – 株式会社トランストラクチャ

 こうした非正規雇用の労働者に支払われる給与というのは、正規雇用の社員と比較して低いことが多いですから、たとえ非正規雇用労働者の中では給与が上がっているとしても、全体の平均としてはどんどん低くなってしまうわけです。

 ふたつ目の理由として、年金給付の抑制や社会保険料の上昇を含む増税があります。以下の図では、会社が雇用者のために払うお金と、日本国民が実際に使える「手取り」の推移を示しています。

(出典)内閣府国民経済計算よりニッセイ基礎研究所作成

 一見して分かるとおり、会社が雇用者のために負担するお金(これには年金や健康保険の保険料も含まれます)は増えているのですが、国民が実際に使うことのできるお金はほとんど変わりません。

 これは、高齢化が進む中で、一人当たりがもらえる年金が少しづつ抑えられ、働いている人々が納めなければならない社会保険料も段階的に引き上げられているからです。これは給与明細で確認できますから、実感をともなう方も多いかと思います。

 そして三つ目の理由として、働く女性や高齢者の増加があります。以下の図は、高齢者とそれ以外の男女それぞれの労働者が2012年からどれくらい増えたり減ったりしたのかを示しています。

(出典)総務省労働力調査よりニッセイ基礎研究所作成

 65歳未満の男性は働く人の数が減っていますが、女性や高齢者は6年で400万人以上増えているのが分かります。

 つまり、日本では働くことのできる人口がどんどんと減っていますが、これまで働いていなかった女性や高齢者がもっと働くようになったので、実際に働く人の数は日本では高齢化が示すほど減ってこなかったということです。

 そして、働く人が減らないのであれば、会社は給料を上げなくても労働者を雇うことができるので、期待するほど給料が上がってこなかったということです。

 さらに、女性や高齢者は若い男性と比較して正規労働に就く割合が少ないので、先に挙げたひとつ目の理由にも寄与していることになります。

女性と高齢者の労働力増加はそろそろ限界

 さて、日本で手取りの給料が上がらない理由を見てきましたが、最後の理由である女性と高齢者の労働力増加はそろそろ限界を迎えつつあります。

 以下の図は、これまでの女性や高齢者の就業率の高まりが2018年時点のペースで進むと仮定したときの、就業者数の予測を表しています。みずほ総研によれば、2025年くらいに限界を迎えて就業者数は減少に転じるだろうと予測しています。

(出典)総務省労働力調査よりみずほ総合研究所作成

 もしも、女性と高齢者の就業者数が減りはじめて、今度こそ本当に労働力が足りないということになれば、賃金は高まるでしょう。

労働力不足が物価上昇につながる条件

 賃金が上がりはじめたとしても、それがすぐにインフレにつながるわけではありません:

人件費高騰の対応策として、資本設備の増強や技術革新の進展による労働生産性の上昇が進んだ場合、実質賃金の高まりと同時に、生産一単位あたりの労働費用が縮減され、物価上昇もその分抑制されるかもしれない。

尾崎達哉・玄田有史「賃金上昇が抑制されるメカニズム」

 つまり、人を雇うコストが高くなってしまったのに困った企業が、機械化を進めるなどしてモノやサービスを生産する人件費を抑えることにした場合、インフレにはつながらないかもしれない、ということです。

 これがどちらに転ぶのかは予想することしかできませんが、医療や福祉などの機械化しづらい産業が大きくなっていく中で、人件費の抑制には限界があるのではないかと考えることもできそうです。

 さて、この記事ではインフレの発生する要因として、賃金と人件費を考えてみました。結論として、女性や高齢者の就業者数がこれ以上増えなくなる2025年あたりに転換期を迎える可能性がありそうです。

 次回の記事では、賃金以外の要因を考えてみたいと思います。